津村喬(つむら・たかし)
春菜ちゃん殺害事件は、誰もがやりかねない隣の子殺しとして衝撃を与えた。動機を巡ってさまざまな言説が出ているが、問題の根が、子の教育を親の自己実現と錯覚することにあるのは間違いがない。しかし、「教育家族」による、自殺も含めた「子殺し」は一世紀以上前からはじまっていた…
東京文京区で起きた「春奈ちゃん殺し」は、「普通の主婦が誰でもやりかねない隣の子殺し」というモデルを提示したことで、普通の主婦とその夫たちを震撼させている。
「詳しい動機は不明」というが、黙秘しているわけではなくて「本当に動機はありません」と繰り返していると報道されている。その後の供述で「また三年間隣の主婦とつきあうのが耐えられなかった」ということを言っているらしいが、これを「動機」というのはどうかと思う。本当にそうなら転居するなり保育園を変えるなり絶交宣言をするなり、いくらも方法はあるわけで、子どもを殺してしまうという行為に結びつくはずがない。警察に何か言えと迫られて他に言うことがなくて言っただけで、「本当に動機はありません」のほうが真情なのではないだろうか。
かつてカミュが「異邦人」で、太陽が暑かったというだけで衝動的に動機なき殺人を犯す人間が描いてショックを与えたが、いまの時代はむしろ「動機がないのが当たり前」の一億総「異邦人」状態になっているのかも知れない。
少し前の『京都新聞』にこの事件について識者の意見を聞いた記事が出ていた。「自己の空虚さと教育家族化」という題で、おおよそのことはわかる。小説『女たちのジハード』を書いた篠田節子は、都会的事件というより、静岡の実家まで電車を乗り継いで死体を運んだ行為の背後に「家族にかかわる意識の濃密さ」を指摘する。
ノンフィクションライター速水由紀子は「自己肯定の感覚が持てないまま母親になる女性」が「自分の身代わりに我が子にすべてを託し、母子が向き合う形で周囲から孤立する」その孤独の深さを感ずるという。「我が子の進路に懸命なのも、一見愛情のようで、実は子どもを所有物と見なしていることの表れ」というのはまことにその通りだ。
評論家芹沢俊介は「教育家族化」というキーワードを出している。家族の目的が、子どもの学歴や教育環境にだけ向かう構造をこのように呼んでいる。そして「教育家族化した家庭での早期教育は、虐待の様相を帯びやすい」という。叱咤激励が暴力的になるケースだけでなく、よその子の脱落を願うという虐待もある。
かつて精神分析の小此木敬吾は、本来の家族が崩壊した結果、現代の疑似家族として、よい家庭を全員が演じ続ける「劇場家族」、ほかに攻撃目標を持ったときだけ団結する「要塞家族」、病気の心配だけでつながっている「サナトリウム家族」などを挙げたが、この教育家族はそのリストに付け加えられるものかも知れない。あるいは要塞家族の攻撃性の別のあらわれというべきだろうか。
しかし親が、子の教育を自己実現と錯覚するのは今に始まったことではない。どこかでそれについての論文を読んだことがあるのだが…と考えながら押入れの片づけをしていたら、ふと開けた、本を納めている段ボールの一番上に「思想」1975年12月号があって、そこに桜井哲夫「民主主義と公教育----フランス第三共和制における業績と平等」という論文が出ていた。こういう不思議な偶然というものはあるものなのである。
この論文では、(1)市民社会が早くから成熟していたヨーロッパ諸国でも、国家が管理する「宗教的でない、無償の、義務教育」は日本とほぼ同じ1870年代以降に始まっていること、(2)それ以前は労働者の普通教育こそ労働者解放の鍵だと考えられていたにもかかわらず、いざ実現してみるとそれは階級意識を解体し、国家意識に回収する装置となっていったこと、(3)誰でも望みさえすれば教育の階段を登ることで支配階級に近づいていけるのだから階級というものはなくなったのだという理論がまかりとおり始めたこと、が書かれている。
いま読むとかつてほど感動的とは言えないが、支配階級に近づきたくなくて自らの進路の前にバリケードを築こうとした団塊世代の一員としては、「自分のしたことはそういうことだったのか」と深く納得させられるものがあった。つまり「出世したくない」と宣言することによってしか国家から自由になれないという直感が、歴史的に根拠のあるものであったことがわかったのである。「社会的上昇の道をたどる労働者農民の子弟は、勤勉、努力による栄達の道をめざすプチブルのモラルに同調、同化していく過程で完全に支配的イデオロギーに屈服し、体制内のイデオローグとなっていくからである」と桜井は書いている。
普通教育とともに、労働者の横の連帯はあやしいものとなる。なぜなら、自分の仕事に誇りを持ってそれを息子に伝えたいという労働者は皆無になり、子どもだけはこんな目に遭わせないで支配階級になってほしいと願い、それに情熱を傾けるようになるからだ。それとともに青少年の自殺が激増する、と四半世紀前に桜井が書いているのは注目に値する。
フランスの話であるが、1869年の10代後半の自殺者168人は、1889年には477人となる。その多くが、試験の失敗で「親の重荷になりたくない」と窓から飛び降りた娘や、試験の失敗で失踪しスラム街で困窮のうちに息を引き取った少年の同類である。手に職を持ちたいと親に頼み続けながら上の学校に行くことを強要されて首を吊った商人の息子もいる。教育家族による子殺しは120年前には始まっていたのだ。
この意味で教育とは、自分の人生に失敗した親が子どもに暴力をふるいたくなる衝動を利用して国家が社会を安定的に管理する仕組みのことである。春奈ちゃん殺しのようなケースは、この教育の本質にそろそろ誰もが目覚めていい時代が来たこと、目覚めなければ同様の犯罪がいくらでも出現しかねない時代が来てしまったことを告げているような気がする。