「パターナリズムの世界」からの脱出のために
〜ドイツの原子力関係者は
「臨界事故」をどのように見るか


美濃口坦(みのぐち・たん)


《編集人より〜やや長い前書き》

◆本稿は内容的に、前号(No.79)の拙稿「このままだと百年たっても日本の原子力が不安な理由」の続編といってもよい。また筆者美濃口氏からは、内容的に前号の拙稿と重複するが、重要なことは何度繰り返してもいい、と寄稿に際して添え書きをいただいた。同感である。

さらにこの添え書きで美濃口氏は、他の国がこう言っているから日本もこうする、あるいは逆に、他の国がどう言おうと日本は日本独自のやり方でいいと反発する、このどちらにも賛成しないと述べているが、これにも同感である。自分たちの頭でよく考え、議論し、良いと判断するものはそれがよその国のものであろうと採用して、最善の安全管理を模索すべきなのだ。

ドイツは80年代にすべての州で、原発の監督官庁を、推進官庁である州経済省から州環境省に移行したことは本稿でも述べられているが、これが彼らが考えた、最善の安全管理へ向けての道である。

日本ではあまり知られていないが、この移行期の80年代、西ドイツ時代の1987年に、ビブリス原発で人為的なミスが原因で一次冷却材喪失という大きな事故が起こり、これが1年も隠蔽されたことがあった。

ドイツはじめ欧州の原発保有国は、過去に学びながら、より安全な管理へ向けて努力している。そしてまたそれらの国々でも、それを進めるに際しての障害は存在する。だから「もともと安全管理に対する認識が違うのだから…それに比べて日本は…」といったように日本を特別視することは避けるべきであろう。あるいは日本が特殊であって、安全管理の認識に問題があるというなら、それを乗り越えて(上記のように学ぶところは他国から学び)、制度の改善を目指すべきだ。どの国でも、原発の安全管理はやっかいな問題であることに違いはないのだから。

政府は、11月12日(1999年)に原子力災害対策特別措置法と原子炉等規制法(改正案)の法案を国会に提出した。チェック機能として、新たに原子力防災専門官と原子力保安検査官を科技庁と通産省に設置するとあるが、相変わらず原子力行政の「一人二役」に違いはない。前号に続き本稿でも、この問題に触れている。果たして「一人二役」のままでいいのかどうか、改めて考えてみたい。

◆ここでタイトルにある「パターナリズム(paternalism)」という言葉について触れておく。日本人にはほとんどなじみがないこの言葉は、「家父長主義」とか「家族的温情主義」という日本語訳があてられる。生命倫理学、医療倫理学で用いられる用語であるが、これは、欧米のジャーナリズムでもしばしば用いられる言葉で、こらの場合は、新聞の報道の仕方や、儀式的な政治劇などにあらわれる日本人の行動様式の根底にある価値観を意味する言葉として用いられる。この言葉を日本でも「パターナリズム」と、英語そのままで用いることが多いが、その理由は、上記のような日本語に訳してしまうと、日本社会特有の家族構造と関連した社会現象にのみしか適用できなくなることあるからだ。よって本稿でも「パターナリズム」というようにこの言葉をそのまま用いることにする。(川口晋)


◆日本に公的コントロールはない

『結局、日本には原子力施設の安全性に関して公的コントロールなどないのだ』

こうつぶやくようにいったのは、東海村臨界事故について私が話すのをそれまで黙ったまま聞いていたほうの役人である。

私が原子力施設の安全管理を担当する彼ら二人の役人に語ったのは、日本の新聞から仕入れた知識に過ぎない。例えば、事故を起こした企業は長年にわたって作業効率のために「裏マニュアル」を使って操業していたことや、作業員が知識の欠如からその「裏マニュアル」からも逸脱して事故をひきおこしたことや、科技庁からろくろく立ち入り検査がなかったことなどである。どれもこれも、日本の読者にとって多分耳にタコができるほど聞かされた話しではないのだろうか。ドイツの役人も、そんなことなどこちらの報道やその他の情報源から承知のことである。しかし同じことも、日本人の口から直接聞くのは格別なことかもしれない。私は話しながらそう思った。

東海村の「臨界事故」の起こった後、以前原発の取材で知り合った原子力関係者の何人かが私に心配の電話をよこした。それは、こちらの新聞が、事故をほぼ第一面全部使って大きく取り上げたからである。ドイツの作家ギュンター・グラスのノーベル文学賞受賞のニュースは、そのお陰で後ろのほうへ飛ばされてしまった。

その後しばらくして何人かの原子力関係者に会った。それは、日本でいえば原子力安全委員会に相当する機関のメンバーであったり、中央や州の原子力施設担当官庁のお役人であったり、また政治家であったりした。本来「臨界事故」のことなど話す予定ではなかったが、どうしてもそちらに話題が移る。ジャーナリストではない彼らは、よく事情のわからない他国の事故についてコメントしたがらない。ところが、私の方は彼らの見解を知りたいので、「名前をあげて引用しないから」と断って率直な見解をいってもらえるように仕向けた。本稿では『』の引用は彼らの発言で、私がメモし、多くは今でも私の耳に鮮やかに残っているものである。

彼らが話したことのうちで二つの点が私には重要に思われた。第一の点は、冒頭の発言にあるように、安全性の「公的コントロール」問題であり、これに関連してドイツ人の誰もが日独の「安全管理文化」の相違を強調する。第二の点は、原子力施設の安全性についてどの役所が管轄するかという制度上の問題である。

どちらも日本の社会構造や文化に関連する。そのためか、通常は見解が対立するドイツの原発反対派も肯定派も、この二つの見方では奇妙なほど見解が一致した。


◆ノー・コントロール〜「信頼の原則」で機能する

ドイツの原子力関係者は、なぜ『結局、日本には原子力施設の安全性に関して公的コントロールなどない』と思うのであろうか。

連邦制分権国家ドイツでは、州の環境省が原子力施設の建設・操業の許認可権をもっている。許認可権をもつ役所が、認可通りに操業されているかを監視し、そうでない場合認可を取り消して操業をやめさせる権限と責任をもっていることはいうまでもない。この環境省の安全監視課の操業監視官が、例えば原発が5基あるバイエルン州を例にとれば、1998年に50回、原子力施設の立ち入り検査に入った。

 操業監視官は『大学で原子物理学や工学を勉強した人々』である。ちなみに、彼らは、ドイツの大学生が30歳近くまで勉強しているので、日本でいえば大学院のドクターコースを出て充分な理論的知識を身につけ、更に実地経験を経たスペシャリストだ。ベルリン遷都後もボンに残る連邦政府の原子力施設安全局によれば、抜き打ちも含めて1週間に1度の割合で実施される立ち入り検査はドイツで標準であり、バイエルン州だけが特別に多いわけではない。

公的コントロールはこれだけではない。原発や核燃料加工生産施設のある州の環境省はどこでも「技術監視協会」に委託して、そこのエンジニアに立ち入り検査・点検を実施させている。日本には類似した組織がないかもしれないが、前世紀末にできたこの「技術監視協会」はどの州にもあって、多数のエンジニアをかかえ、委託を受けて技術分野での安全基準の検査にあたる公益事業団体である。

またここでバイエルン州を例にとるが、この「技術監視協会」のエンジニアの立ち入り検査が1998年度で約2000日に達したそうである。これでは、1基平均エンジニアの検査が400日になり、1年365日をはるか越えてしまう。こうなるのは、エンジニアが2人で1基を点検すると2日分として計算されているからである。これらの数字は、チェックリストを片手に、あるいは頭のなかに浮かべながら立ち入り検査を実施する役人もしくは点検を委託されたエンジニアが、ほぼ四六時中原子力施設に出かけることを意味する。

このように立ち入り検査を繰り返すことが『安全性に関しての公的コントロール』と考える人々から見れば、確かに日本にはコントロールなど存在しないに等しいのである。なぜなら事故を起こしたJCO社は次のように報道されているからだ。

「92年11月7回目の調査以降は、1度も行われていなかった」(朝日新聞1999年10月9日付朝刊)

「これ(東海再処理施設の火災・爆発事故)以来、運転管理専門官はJCOの転換試験棟を2度、巡視したが、いずれも運転休止中で作業ぶりを見る機会はなかったという」(同紙1999年10月10日付朝刊)

すでに作業を簡便化する「裏マニュアル」は十年近く前にできていたので、いったい運転管理専門官はどんな立ち入り検査をしていたかということにならないだろうか。

『認可された製造行程を逸脱して、作業員が正体不明のバケツを使っていたら、私たちは発見できたと思う。私たちは現場で作業員に質問もできるし、また彼らには上司を介さずに直接答える法的義務がある。…単なる例であるが、マニュアルにこの荷物は一つずつ運ぶと書いてあっても、もし軽いものであれば現場の作業員は一度に二つも三つも運ぶ。 落とさないように注意すればいいので、こうして手間を省くのが彼らにとって自然なことである』(バイエルン州の「技術監視協会」で原発の立ち入り検査に従事するエンジニア)

今回の事故に関連して、科技庁でなく、資源エネルギー庁の管轄下にある原発の安全性が強調される。確かに、原発の近くには役人が常駐しているかもしれない。ところが、ドイツ側はこの常駐する役人を『検査・点検能力を備えた技術の専門家』でなく、どちらかというと『連絡事務にたずさわっている役人』と見ている。

私が話をしたドイツの原子力関係者のなかに、日本の安全性技術水準が高く、事故の起こりにくいように技術的工夫が施されていることに、疑いを投げかける人はいない。彼らは、『公的コントロール』がない点に今回の事故の主要原因を見る。また彼らは、『日本の原子力施設の安全性が立ち入り検査といったコントロールの原理でなく、別の原理、すなわち担当官庁と事業者の信頼関係によって保障されている』と見なしている。

ということは、彼らから見ると、担当官庁の運転管理官が現場に立ち入ることは、『ドイツ的な意味での検査・点検というコントロールでなく』、この相互の信頼の絆を強めるのにもっぱら役立っているに過ぎない。

「しっかりやっているだろうなー」「はい、がんばってやっています。ご足労いただいて恐縮で」といった応答は、ドイツでも(また日本でも)「立ち入り検査」とは言わないのではないのか。

誤解を招かないために付け加えると、彼らは信頼関係が重要ではないと考えているのではない。ドイツ国民が大好きなゴルバチョフが昔言って、よく引用されたフレーズがある。それは『信頼は良いことだが、コントロールのほうがベターである』であるが、同様にドイツの原子力関係者も考えている。


◆「パターナリズムの世界」とは

 

なぜドイツの原子力関係者は『安全管理文化の相異』といって、文化的問題と見なすのだろうか。まず官民が信頼関係だけで動くことについて考えてみる。

欧米人の学者やジャーナリストは、日本社会やそこで機能する人間(集団)関係について論じるとき、よく「パターナリズム」というコトバを使う。この表現は生命倫理学者のあいだでは日本語として定着しているが、まだ一般的でない。これは、ラテン語で父親を意味する「パーター」から来たもので、「家父長主義」とか「家族的温情主義」と訳されている。

生命倫理学で、このコトバは、医者は最善の治療をしてくれているという全幅の信頼を患者が抱き、医者もそれに応える(ようにふるまう)関係を意味する。この関係は、医者に治療の説明を求めたり、患者の了承を重視する「インフォームド・コンセント」とは異なるので、生命倫理学では対立概念として扱われている。

ヨーロッパ人は、日本では多くのことがこの「パターナリズム(家父長主義)」的原理で動いていて、国民が家父長のような存在の官僚や政治家の手腕を信頼すると同時に、彼らから子供扱いにされている社会と思い込んでいる。これは、日本社会全体が大家族の内部のように相互の信頼関係に基づいて機能しているという社会観でもある。八十年代によく耳にした「日本株式会社」論もこのバリエーションの一つである。例えば、ヨーロッパではかなり昔から、管轄官庁とは法律というルールや尺度に基づいて操業を認可したり、取り上げたりするものと見なされている。それに対して、日本で「監督官庁の指導」とかいった奇妙な表現が奇妙と思われず横行するのもこの証拠と、彼らは見なす。

本当のところ、私は普通、ヨーロッパ人のこの種の日本社会観を聞くとかなり抵抗感をおぼえる(その理由は後で述べる)。ところが、今回「臨界事故」の報道を読んでいて、この「パターナリズムの世界」という日本観がそう根も葉もないものではないように思われた。例えば、次のような報道がある。

「…「マニュアル通りに行われないことも起こり得ると、想定しておかなければならない」。JCO東海事業所を監督する科学技術庁の有馬朗人長官は3日、出演したテレビ番組で厳しい表情を浮かべ、こう語った。…」(朝日新聞1999年10月4日付朝刊)

「信頼関係踏みにじった(見出し)/事故の影響で茨城県産の水産物は前年の2、3割安になっており、漁業関係者はJCOに対し賠償請求を予定している。篠崎道雄・県漁協連合会長は「JCOは、我々と原子力機関が40年以上かけて築いてきた信頼関係を踏みにじった。許せないし、弁解も聞きたくない。警察には徹底的に事実を解明してほしい」と話した」(同紙1999年10月6日付夕刊)

この二つの引用箇所は、特に「監督官庁」最高責任者の発言のほうは、今まで述べてきた「公的コントロール」という発想がいかに希薄であるかを物語る。というのは、この人は役所が認可したら、認可した内容通りに物事が進むと信じていたと自ら告白しているに等しいからである。

次に、彼のこの発言を「パターナリズム」の言語に翻訳すると、「倅に、(本当は良くできた息子で、だからこそ)何か起こるなど夢にも思わないでいるうちに……この度の不祥事を仕出かしまして、これはひとヲに父、私、有馬の監督の不行き届きでございまして……」ということになるのではないのか。

東京勤務のドイツ人ジャーナリストの眼から見ると、日本で「不祥事」が発生すると、結局のところ社会の成員相互が「信頼が裏切られた」という発言をいいあっていうるうちに、「人のうわさも七十五日」でいつの間にか終ってしまう。あるいは、「原発は安全でないという意識を皆が持ち続け、みんなでがんばって事故を起こさないように気をつけましょう」といった精神主義的お説教で幕を閉じるという。

確かに、この「パターナリズムの世界」を不満に思い、何とかして変えるべきだと考える日本人は大勢いる。ところが、知日派外国人ジャーナリストはこの点かなり悲観的である。

その理由はこうである。もしこの有馬科学技術庁長官が、「厳しい表情を浮かべる」ことなく、悪びれもせず、別の反応を示したらどうなるであろうか。例えば「原子力平和利用がはじっまって以来、日本の原子力行政はろくろく立ち入り検査なしでやってきた。就任して二、三年しかたっていない自分の責任ばかりが問題にされるのはおかしい」と、この人が正直に言ったとする。直ちに「開き直り」とか言われてマスコミの袋叩きにあうのは必至だからである。

ということは、マスコミのほうが、このような立場にある政治家に対して、「不祥事を仕出かした息子の父親」として行動することを求めていることになる。同時に、「袋叩き」という制裁によって、このパターナリズムの価値観が社会のなかで定着することはいうまでもない。

また政治家が気にする大新聞、テレビとかいったメディアは、読者の関心を「信頼できるか、できないか」の問題に集中させる(よく眼にする表現「政治不信」もこの「パターナリズム」のイディオムである)。 引用した「信頼関係踏みにじった」という見出しもこの事情を如実に物語るのではないのだろうか。このようにして、マスコミは「パターナリズムの世界」の根底にある信頼関係を強調し、その構造的強化を進める役割を果たすことになる。

このようなことは、日本で仕事をする外国人ジャーナリストが何度も指摘したことで、特に目新しくない。日本側は自分の娘や息子にケチをつけられたように、すなわち「パターナリズム」の言語で反応し、結果として彼らの「日本社会観」を証明するのが普通である。


◆事後対策より予防

すでに述べたように、私は欧米人に日本社会を「パターナリズムの世界」と見なされるとアンビバレントな気持をおぼえる。この種の話に、私は自文化中心主義の臭いを濃厚に感じるからである。

私が少し笑い出したくなるのは、どこか「灯台下暗し」になるからだ。彼らは、日本を問題にしはじめた途端、自分達の暮らす社会がどのように機能しているかについて突然盲目になる。というのは、どこの国の社会でも信頼関係だけで動いている領域があるからである。私的領域がそうで、女房が浮気して「信頼が裏切られた」と嘆く友人に検査・点検を怠ったと説教することは、ドイツの原子力関係者にもないと思われる。

またこのような私的領域を離れても、日本の「監督官庁」と原子力施設操業者の間と同じように、信頼関係である程度までうまく機能している分野がたくさんある。例えば、刑法の対象となる分野がこれに相当する。法律をつくり罰則を規定して、何かことが起こると、警官が動く。 8千万いるドイツ国民の何人かは犯罪をおかす可能性がある。だからといって、警官が四六時中現れて、原発並に検査をはじめたら、ほとんどの人々が反対するはずである。社会のこの分野では、彼らも事後対処で済ましていることになる。

このように考えると、ドイツ人のほうは原子力関係の事故を犯罪事件と同列に置かないで、立ち入り検査や点検といった「公的コントロール」を極力重視していることになる。それとは反対に、日本のほうは意識のどこかで原子力事故と犯罪事件を同列に置いていることにならないだろうか。事故が起こってからどうするかという、事後対処のシナリオのような「原子力防災法案」が政治サイドで最初に具体化したのも、この意識を示唆するのではないのだろうか。

もちろん事後対処について、このように準備することは無駄では決してない。どこの国でもやっていることだ。ただこちらばかりにエネルギー向けられると、私は戦時中の防空訓練を考えてしまう。実際にB29の焼夷弾爆撃が始まったとき、隣組のバケツリレーがあまり役に立たなかったことは、数年前ベストセラーになった「少年H」の主人公に尋ねたらよいかもしれない。

日本でも、事後対策以上に予防のための体制改善によりエネルギーを使って欲しいと思う人のほうが多いのではないのだろうか。


◆原子力行政の「一人二役」から「二人三脚」へ

ヨーロッパ人の「パターナリズム」的日本社会観に一方的に賛同できないもう一つの理由は、゛らが自分の説に都合の良い事実ばかり拾ってくる点である。

今回のように、原子力関係者に日本のお役人が検査や点検をしないことばかりを指摘され、これが『安全管理の文化的相異』といわれると、私は変な気がしてくる。なぜかというと、多くの日本人は自国の役人が杓子定規に点検検査するのを承知しているからである。

私自身十年以上も前、大阪空港の税関検査で、帰国したおばあさんのトランクを開けて不必要と思われるほど丹念に点検し、狼狽させているのを見たことがある。当時、彼女が自分の母に近い年齢であったこともあってか、私は怒りを覚えた。いずれにしろ日本の役人も点検とか、検査とかがけっこう好きなのである。

とすると、なぜ原子力関係分野では大好きなことをしないし、しなければいけないという発想も存在しなかったのかという問題になると思う。この答は決まっている。「官民癒着」で、これも日本国民が今まで耳がタコになるほど聞いたことである。しかし私はこんな回答に満足できない。

まず「官民癒着」などどこの社会にもあることである。ある意味では自然で人間的な現象で、こんなことを言うのは道端の石ころの存在を指摘するのと変わりがない。重要なのはこの癒着の構造をある程度まではっきりさせて、仕組みを変えることである。こうして議論が煮詰まっていかないと、単に「官民癒着」と言って不信感を表明するだけに終り、「パターナリズムの世界」から抜け出ることができないと思う。

なぜ癒着構造が生れるかは、原子力技術を推進する官庁が同時に建設・操業の許認可と安全性監視の権限をもっているからである。日本では商業炉の原発は資源エネルギー庁が、実験段階の原子力施設は科学技術庁が許認可権をもっている。両者とも、周知のように推進官庁である。こんなことは、会社の創業者が息子を自分の権限で会社に入れるようなもので、良くないことは多言を要しない。原子力の安全性はいうまでもなく一私企業が倒産するかどうかのレベルの問題ではない。

すでに本誌前号で川口編集人も指摘されたように、ドイツの原子力関係者はこの日本の官庁の「一人二役」に今回の事故の制度的原因を見ている。

原子力平和利用揺籃期には、どこの国も原子力行政は「一人二役」でやっていた。地方分権国家ドイツでは許認可権が州の省庁にあり、長いあいだ州の経済省が担当していた。それが変化するのは1970年の一番早いバイエルン州で、許認可権が州経済省から、新設された州環境省に移行する。ドイツで原発のある他の州でも、この管轄権の移行が80年代に終了した。またこれら州の許認可をコントロールする中央の連邦政府で、この権限が内務省から、創設された環境省に移行するのはチェルノブイリの原発事故の後である。

原子力行政で推進と認可を兼任してきた官庁が分離されて、「二人三脚」に移行するのは当時の国際的トレンドであった。原発大国フランスも、よく日本でも模範視される原子力規制委員会(NRC)を擁する米国も、また原子力を平和的に利用する他の先進国も、時期もきっかけも異なるかもしれないが、「一人二役」から「二人三脚」への道を歩んだのである。この問題と関連して、原発に批判的なダルムシュタット環境研究所のミヒャエル・ザイラーさんは次のように指摘する。

『統計をとったわけではないが、原子力関係の事故の回数は、原子力行政で推進官庁と安全性を監視する官庁が分離していない国のほうがはるかに多いと思う』

彼は今年の3月から連邦環境大臣の諮問機関であるドイツ原子炉安全委員会のメンバーになった。こんなドイツの反原発派の発言に何の価値も置かない読者のために、別の人を引用する。

『原子力行政が推進機能と安全性監視機能に分離して、別々の省庁が管轄するほうが正しいと私は思う。役人は省庁が変わると別のメンタリティを身につけるからだ』

こう発言したのは、アレクサンダー・ヴァリコフ元連邦議員で、かってプルサーマル燃料をつくる会社の社長を務め、ドイツ「核燃料サイクル」の重要な推進者であったし、現在でも熱烈な推進論者である。

冒頭に述べたように名前を出して引用しない約束で話しを聞いたのであるが、この原稿を書きながら、問題が重要だと思われたので、上記二人には電話して引用の許可をとった。

本誌No.61の本項で述べたように、廃棄物処理を考えれば、原子力は「はてしなき物語」である。日本国民は、安全性の問題と永遠に直面していかなければいけない。この問題は原発賛成・反対と無関係に重要な問題で、切り離して考えるべきである。どうやら私は、今回の「臨界事故」が「人のうわさも七五日」にならないで欲しいと思うあまり予定以上たくさん書いてしまったようだ。


◎美濃口坦(みのぐち・たん)
 1945年、鎌倉に生れる。1969年A京都大学独文科卒。
 1973年からミュンヘン在住。日独文化研究所研究員。訳書に、アイブル=アイベスフェルト『比較行動学』(みすず書房)。
メールマガジン『Navigator』No.80(1999年11月20日号)より http://www.mediaforest.com/navi/
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