天保三年(一八三二)、八月一七日。
その日の江戸は、この夏の異様な涼しさが孕んだ無気味な予感、すなわちこれは凶作と飢饉の前触れではないかという寒々しい不安をも吹き飛ばすほどの、猛烈で狂おしい熱気に包まれ、狂躁と興奮が渦巻いていた。
渦の中心には、罪人の引廻しがあった。
その行列の規模がまず、尋常ではなかった。かり出された町奉行配下の穢多、非人身分の人足の数、そして検使役の与力や警備の同心の数が、通常より遥かに多い。倍以上いた。総勢一〇〇人にもなろうかという大規模な引廻しだ。しかも、与力、同心の各人が携行する太刀・脇差しの他に、穢多小頭の長吏や非人たちが辺りを威圧するために持ち運ぶ朱槍や突棒、射股など、武具の数も通常の三倍以上の合計三〇。行列の規模のみならず物々しさにかけても、常ならぬものがあった。
それだけではない。沿道の人波の中にも、見物人の姿を巧みに装った一五〇人もの同心や岡っ引きたちが潜んでいた。彼らは、行列と共に移動しながら、群集の動向を注意深く見守っている。ただ一人の罪人の引廻しとしては、異様なほどの厳戒体制と言えた。
これほどものものしい引廻しは、慶安四年(一六五一)に謀叛人、丸橋忠弥が処刑されて以来ではないか。そう噂されたが、丸橋とこの日の罪人とでは、犯した罪の種類が明白に違う。
裸馬上の罪人は、謀叛人などではない。一介の盗人だ。
にもかかわらず、男の罪状は、武家の多くに凄まじい衝撃を与えた。その結果が、この日の厳重極まりない警戒だ。
奉行らは、考えた。
この盗人は、武士の権威を踏みにじる極悪人だ。
かくのごとき者は、厳罰に処さねばならぬ。
見せしめとして、江戸中引廻しの上、磔・獄門に処すべし。
武家の権威にすがり、幕藩体制という巨大で堅牢な制度の中で安穏とした生を貪ろうとする者たちの心は、この一人の盗人によって、とびっきりの恐怖と憎悪を植えつけられたのだ。
もしもこの男が単なる盗人ではなく正真正銘の謀叛人なら、武家たちの恐れも憎しみも幾分小さくてすんだかも知れない。武家が享受する特権を奪うのが目的の謀叛人なら、武家にとっては言わば共通の価値感を持った相手であり、その行動原理が理解しやすい。金目当ての盗人というのが、何よりも癪で、とことん腹立たしかった。盗人ごときに自分たちが愚弄され嘲られている悔しさが、燃え盛る憎悪の炎に、大量の油を注ぐ形となった。その盗みの金額の凄まじさに驚きと浅ましさを覚え、自分たちがすがる価値体系への深刻な脅威ととらえた。
だからと言って、やたら警戒を厳重にするのは、見苦しく、かえって武家の威信を低下させるだけではないか。
そう懸念する者が幕閣中にもあったが、それでもやはり、警戒を厳重にしないわけにはいかなかった。
何しろ、この賊の世間での人気は、凄まじいものがある。爆発的、と言って、過言ではない。万一、刑を執行し終えるまでに何か由々しき事態が勃発すれば、武家の権威は一層傷付き、それどころか、天下泰平の世を乱しかねない大乱が一気に引き起こされる恐れもある。幕閣たちは、そう認識していた。
この処刑は、武家政権の威信に賭けて、一切滞りなく、常通りに完了させねばならぬ。警備には万全を期し、もしこの期に乗じて打ちこわしなど騒乱を引き起こそうとする者があれば、厳重かつ徹底的に取り締まらねばならぬ。また、本人も否定しており確証もないが、その驚嘆すべき犯行の数々は、単独犯のものとはにわかには信じられない。影に隠れておる一味の者が、この男を奪還に来る可能性も、ある。もしそのような者が出現すれば、千載一遇の好機である。万難を排して、即刻、捕縛せよ。手に余るようなら、その場で切り捨てるとも、善し。
この日の警戒の厳重さは、馬上の男が町奉行はじめ幕府高官たちに与えた恐怖と衝撃の大きさを、文字通り白日の下に曝すこととなった。
与力、同心たちはもとより、その配下の岡っ引きたちも、馬上の罪人と群がる見物人たちの様子に、油断なく心を配りつづけた。特に武家の出の同心たちの緊張と気の高ぶりはすさまじく、その目つきは、あたかも生まれて初めて戦場に挑んだ兵卒のごとく、あるいは、現代風にたとえるならば、校則と慣習こそがすべてを超越する掟だと心底信じ生徒たちを執拗に取り締まる風紀指導の倒錯教師のように、血走り、ギラついていた。むしろ罪人上がりや百姓崩れの抱非人身分の岡っ引きたちの方が、まだ平常心を失わずに、事態を落ち着いて眺め、職務をこなしていた。
一方、当の罪人はと言えば、まさにその警戒の異様なる厳重さを嘲笑うかのように、馬上から見物人に向けて、涼やかで澄み切った笑顔をふりまきつづけていた。
忌ま忌ましい。
胸の内を逆撫でされた警護の同心たちの表情には、不快と憎しみの色が露骨に表れていたが、馬上の男にとって、それこそが愉悦の種だった。胸がすく思いを一際かき立てた。
見物する江戸っ子たちにとっても、それは同じだった。同心たちが不快そうな顔をするほどに、心の内は晴れ渡った。
一般の町民にとって、奉行や与力・同心たち二本差しの侍どもの思惑など、知ったことではない。見物に集まった数万の民衆は、道を行く行列を「見せしめ」などとはとらえていなかった。さながら千両役者の死出の旅路のお披露目のごとくに、見物人たちは、少しでも間近からその罪人の姿を見ようと、我も我もと、押し合いへし合い、前へ出た。そして、白縄で厳しく縛られた馬上の罪人に向かって、思い思いの声をかけ、手を振った。拍手と口笛で見送った。黄色い悲鳴を浴びせるお侠な女も数知れずいた。同心たちから見れば、不届至極の憎々しき振る舞いだ。
警備を監督する与力たちも、同様の鬱屈を抱いていた。一個の武士としては、このような町衆の振る舞いを即座に取り締まりたいのはやまやまである。だが、そんなことをすれば、どれほどの混乱が生じるか見当がつかなかった。うかつに手を出せば薮蛇となり、かえってとてつもない騒動を惹起する恐れがあった。打ちこわしにでも発展すれば、とても対処できるものではない。その混乱に乗じて罪人の仲間たちに奪還計画を実行されたら、阻止することは絶対に不可能だ。警備を担当する自分たちの責任が厳しく問われるだろうことはあまりにも明らかで、まず切腹は免れない。
与力・同心は、罪人を捕らえ、収監し、処刑するといった、武士の本分とは違った職務ゆえに、不浄役人として蔑まれている身だ。江戸登城も許されぬ、御目見得以下の下級役人に過ぎない。己の境遇を嘆くことが少なくない彼らには、蔑まれた者故の意地と気概があった。
身命を賭しても、次郎吉の処刑は万事完璧に遂行せねばならぬ。
町奉行らも遠く及ばぬ凄まじい決意で、与力たちは今日の引廻しに臨んでいた。たとえ見物人の動きに腹に据えかねることがあったとしても、混乱に直結する恐れがない限り、耐え忍ぶ。それが肝心だと、お互いに強く戒め合っていた。
与力らは、馬上の男に向かって怒涛のように投げかけられる歓喜と賞賛の声援を、まったく無視した。放っておく限り、無用の混乱が生じることはなさそうに思えた。賢明で現実的な判断と言えた。
沿道に集まった江戸っ子たちの誰一人としてかつて見たことがないほど分厚く厳重に警備された引廻しの行列は、これまた史上かつてないほどの大きな喝采と歓声を浴び、さながら祭の神輿のごとき陽気な賑わいに包まれ、ゆっくりと進んだ。
紙吹雪まで舞っていた。
馬上の男は、鳶人足として身の軽さで有名だった男だ。歌舞伎の中村座木戸番、定七の長男として生まれ、やがて無宿となり、職を転々とした後、鳶人足になった。この引廻しの時、三七歳だったと伝えられる。名は、次郎吉。
そうだ。
この一〇年間に、九九もの大名屋敷、武家屋敷に忍び込み、盗んだ金品を生活苦にあえぐ町民の家に配って回ったと巷間伝えられる、通称、義賊の鼠小僧だ。これで見物の人だかりができない方がどうかしている。
馬上の次郎吉の態度は、実に堂々として見事なものだった。二日後には公開の仕置場で磔・獄門に処されるというのに、恐れのかけらも見せずにいた。落ち着きはらい、胸を張り、表情には涼やかな笑みさえ浮かべて、沿道の歓声に応えていた。三カ月に渡る牢暮らしはさすがに苛酷だったらしく、顔色はすぐれず、頬は痩け、憔悴は隠せないが、愛嬌のある細い目と眉、穏やかで優しげな口許は、捕らわれる前と何も変わっていない。
左右に穏やかに首を振りながら、次郎吉は、人々の熱狂に無言で応えつづけた。
次郎吉の目に、懐かしい男の姿が飛び込んできた。長屋暮らしでの弟分が、必死の形相で人垣をかき分け、見物列の最前列を目指している。
〈おう、金公か〉
次郎吉の口許に、それまでとは少し違った、親しみに満ちた笑みがこぼれた。
〈直参旗本の家の出のくせに、町人になりたがる。つくづく妙な野郎だったな〉
下剋上の戦国の世を終息させた徳川幕府が、最後の大乱である島原の乱(一六三七)を鎮圧し、いわゆる鎖国政策を敷いてから、すでに二〇〇年近く。今やその支配体制は磐石の感があり、大多数の人々には当然のこととして受け入れられていた。
貿易を求めて来訪を繰り返す西洋諸国の存在など、庶民はもちろん、大方の幕閣たちにとっても意識の外にあった。長崎出島に滞在し西洋医学を日本に広めたドイツ人医師フォン・シーボルトがスパイ容疑で国外追放されたのが、四年前の文政一一年(一八二八)。この事件を機に、西洋諸国の脅威はひとまず去った。幕閣たちは安堵して、内政と権力争いにのみ、心を傾けていた。
時まさに、江戸町人文化が最も絢爛に花開いたと言われる文化・文政年間の直後でもある。安定した天下泰平の世相の中、庶民の暮らしはかつてない繁栄を極め、その社会体制の中で生きることを当然とし、そこでの暮らしに穏やかな喜びを見出そうとする者が、大多数だった。実際、そのシステムの中に留まり、従うならば、どのような身分の者であれ、それなりの幸福を味わうことは、難しくなかった。
しかし、もちろん、誰もがそういう生を望んだわけではない。がっちりとした枠組みの中に社会全体が押さえ込められていたこの時代を、生きづらいと感じる者も、少なくなかった。
そもそも、歴史上のどの地域、どの時代を例に挙げても、完全無欠で永遠普遍の政治・社会・経済のシステムなどありはしない。システムの良否はその時代性さらには外的要因とに大きく左右されるものであり、ある形ができ上がればそれで完成、といった単純なものではけっしてないのだ。時と共に人の心も変わり、意識も変わる。新たな価値が生まれ、古い何かが淘汰されていく。人間社会のそのような本質を考えるならば、絶え間ない改善の取り組みがなされている社会こそが、理想的な社会と言えるのではないか。つまり、自己変革のプロセスを内在するシステムだ。堅固で硬直したシステムはその対極にあり、システムの自己保存のために、時代が産み落とそうとしている新たな種を押しつぶす凶暴さを持つ。システムが持つ非情さに翻弄され、苛酷な運命を生きねばならない者たちが生まれる。生きづらさが生まれる。
穢多や非人と呼ばれ、現実に厳しい差別を受け苦しんでいた者たちばかりではない。武士であろうと農民であろうと町民であろうと、繊細な神経と鋭敏な心の持ち主にとって、堅牢強固なシステムが所与のものとしてある時代を心穏やかに生きることは難しい。茨の道だ。
なぜなら、繊細な神経の持ち主ほど、生まれ落ちた瞬間にはもう己の道が定められているかのような世界の窮屈さに、息苦しさを覚えてしまう。鋭敏な頭脳を駆使して、自身に課された運命に反発し、予め用意された安全で古臭い道から飛び出そうとして、もがいてしまう。突破しても突破しても、保守的な制度と勢力に支えられた強固な壁が立ち塞がってくる。それでもなお、戦いを挑む。自由を求めて、力尽きるまで激突していく。
彼らは、ほとんど絶望的な試みと知りつつも、そうせずにはいられない。業深く、生まれながらに苦界に突き落とされた、はぐれ者だ。
金公も、その一人だった。
金公。正確な名は、金四郎、あるいは景元。通称、遊び人の金さん。
次郎吉の他に長屋で知る者はいないが、金公は、歴とした直参旗本の嫡男である。父親は、長崎奉行、勘定奉行を歴任した遠山左衛門尉景晋だから、名家の御曹子と呼んで過言ではない。裕福で何不自由ない家の育ちだ。
にも関わらず、金公が長屋に家出しての町人暮らしを毎年数カ月から半年近く送るようになったのは、いつの頃か。七年前には将軍御目見をすませ西丸御小納戸役に召され、三年前には家督も継いでいるというのに、それ以後も度々町人に混じって繁華街を遊び歩いていた。案の定、今日も木綿の小袖の町人姿だ。
〈なかなか業の深いやつだったぜ〉
定められた運命から逃れようとして、もがく者の苦しみは、泰平の世とてけっして小さくない。いや、泰平の世であるからこその、凄絶さがある。次郎吉はそれを知っていた。
振り返れば、次郎吉の人生では、決まりきった道からどこか踏み外した人間との関わりが多く、深かった。
次郎吉自身もそうだった。穢多身分の娘と恋に落ちたのが運命の境目で、身分違いだなんだのと、家族や仕事仲間の猛烈な反対を受け、駆け落ちへと追いやられた。
しかし元来、江戸時代の身分制度が内包した様々な問題点はさておいても、徳川期以降、お仕置役を命ぜられたのを機に公的に「穢多」と呼ばれるようになった皮革職人層と、次郎吉ら「河原者」「河原乞食」などと呼ばれ差別されてきた歌舞伎一座の者たちとは、「身分」上にそれほど大きな違いがあったわけではない。どちらも士農工商の下に置かれ、住居地は他の町人たちからは隔離され、一七〇〇年代初頭までは江戸の役者たちも穢多頭・弾左衛門の支配を受けていた。西暦二〇〇〇年代に突入した現代日本に暮らす者としての冷静で人間的な視点で見れば、次郎吉と穢多身分の娘の関係など、どうにでも都合のつきそうな恋愛だ。だが、当時の社会状況はそれを許さなかった。穢多身分の娘は私娼地である「岡場所」でさえ受け入れず、穢多頭が料亭で食事した場合はその部屋の畳を自費で取り替えねばならなかった時代なのだ−−現代においても、例えば満員電車の中であっても、外国人が座っている席の隣には座ろうとしない日本人が多く、そんな体験をして傷付く思いをする外国人が多いと聞く。我々もまだ、冷静で人間的な視点を獲得していないのならば、当時の迷信を笑う資格などないだろう。なお、念のために付言しておくが、皮革職人イコール外国人、などという事実はなく、現代の外国人差別と当時の穢多身分への差別とは、似て違うものであり、違いながらも似ているもの、である−−。幕府の江戸治安政策の一端を担わされている皮革職人への不満や、皮革の仕事は「殺生」に関わるゆえに「血の穢れ」につながり「極楽浄土を妨げる」などと説く偏見に満ち誤った仏教思想が、互いに隔離された住・生活環境と相まって、穢多身分の者への差別と蔑視を凄まじく強めていた。
次郎吉の場合、娘への恋心はもちろん、この馬鹿げた「穢れ」信仰へのはっきりとした憎悪の心を持っていた。
秋刀魚は殺して喜んで食うくせに、死んだ牛馬の皮を剥いで細工を作る仕事が穢れてるだと? 馬鹿言うんじゃねえや! てめえら、羽織や袴、雪駄の鼻緒や袋や足袋に、皮細工を使ってるじゃねえか。それでも自分は穢れちゃいねえって? 図々しいにも程があらあっ!
家族にも知人にも常々そう公言していた次郎吉は、自分の肉身が娘に対する痛烈な差別的振舞いを繰り返し侮蔑の言葉を雨霰と浴びせるのに耐え切れず、ある冬の日、遂に、今風に言えば、キレた。親兄弟をさんざん殴り蹴り倒した挙げ句、離縁状を叩き付け、娘と二人、西国へ向けて駆け落ちした。
当てなどなかった。それでも、二人の気持ちは明るかった。幸せだった。若さと愛がすべての苦難を遠ざける。そう信じていた。夢のような道行だった。
まさに夢のごとく、儚かった。
もともと身体が丈夫な娘ではなかった。旅の途上、流行り病に冒されて、娘は一人で、逝った。
あたしは幸せよ。
死の間際、娘は、言った。
次郎吉に出逢い、愛し、愛された喜び。その思い出さえあれば、これから逝く先が地獄だろうと極楽だろうと、構わない。何も怖くないわ。
微笑むように、そう言った。
娘は、愛する次郎吉に見守られ、冥府へと旅立った。美しく、安らかな死に顔だった。次郎吉は、三日三晩、泣き明かした。
死を前にして、娘は大切な何かを悟った。
だが、一人残された次郎吉の若い心は、悟るには早すぎた。いのちの力に満ちていた。達観して穏やかに娘を見送るなど、できるわけがなかった。孤独の重さと自分の無力さに耐え切れず、迸る絶望の激流が抑えられない。たちまち自暴自棄になった。死に場所を求めて、天性の身の軽さを活かし、とある城へ盗みに忍び込んだ。それを、たまたまその城に居合わせた、ある忍びの末裔を名乗る男に拾われた。
あれからもう二〇年近くなる。
その後江戸に戻ってからだと、どれくらいになるか。
嫌なこともうんざりすることも山ほどあったが、やはり江戸は、次郎吉にとって愛すべき故郷だった。
今日、この引廻しが、見納めだ。
そう思うと、馬上から見えるすべての風景が、一段と愛おしく目に映った。
見物に駆け付けた人々の顔、姿。家屋の並び。道の色。すべてが、別れがたさを心中に芽生えさせた。
だが、それはできない相談だ。二日後、次郎吉は刑場の露と消える。
ならば、江戸のすべてを、くっきりと心に焼きつけて死のう。思い出として、冥土の旅路に持っていこう。
〈あの時のあいつの気持ち。二〇年経って、ようやく俺もわかったか〉
次郎吉は、空を、ふっと、見上げた。そして、心新たに、町の景色を見渡した。
金公は、すでに見物人の最前列に躍り出て、次郎吉に向かって何かを叫んでいた。必死の形相で、力の限りわめいていた。だが、江戸中を震わせているのではないかと思えるほどのこの大歓声の中では、とても聞き取れたものではない。
金公と二人で博打場へ遊びに行った時の記憶が、甦ってきた。
あの時、金公は町人暮らしを始めてまだ間がなかった。下々の鉄火場も初めてで、やたらに緊張していた。顔は強ばり、肩肘も張っていた。その反動だろうが、彫ったばかりの桜の入れ墨を何だかんだと露にしては虚しい気勢を上げたがり、博徒たちの失笑を買っていた。
〈まったく可愛らしいもんだった〉
次郎吉は、今改めて苦笑した。
はっきりとは知らないが、金公は次郎吉と大して年は違わなかったと思う。当時、まだ二〇前後だったか。結局金公はぼろ負けし、次郎吉が自分の勝ち分を充当して助けてやる羽目になった。あれ以来、一緒に博打に行くことはなかったが、場慣れするにつれ少しは勝てるようになってきたと、金公は自慢していた。しょっちゅう銭湯に一緒に行ったし、暇な時には、長屋で将棋を指してよく遊んだもんだ。
人が善くて素直な金公の、賭け将棋に負けた後の情けない顔を思い出して、次郎吉は吹き出しそうになった。
金公がいるすぐ側まで、馬は進んできた。次郎吉は細い目に慈しみ込めて、無言のまま、金公に語りかけた。
〈金公。お前はやはり賢いよ。自分をよく知ってる。お前にゃ侍は向かねえよ〉
その時だ。
「あにき!」
金公の声が、ただその一言だけが、一瞬、沿道に渦巻く大歓声の隙間を縫って、次郎吉の耳に確かに届いた。はっきりと胸に響いた。
胸の底深くから、心の奥から、何かがどっとこみ上げてきた。それをぐっと抑え込んで、次郎吉は金公に向かい、かすかにうなずいた。
金公の姿が、行列の後方に流れていく。次郎吉は、思わず空を仰いだ。
屋根瓦の波を遥かに越えて広がる澄み切った青空に、斑点をまぶしたような白雲が、薄らと浮かんでいた。秋の到来を告げる鱗雲、別名、鯖雲、あるいは鰯雲だ。次郎吉は心中密かにつぶやいた。
〈今年は秋刀魚を食えなかった。こいつだけが、ちぃと心残りだな〉
涼風が一つ、頬をかすめて、流れ去った。
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